2010年11月20日

2010年11月19日、21:30。母逝く。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

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人生で出会った人のうち、一番尊敬している人。

母が2010年11月19日、21:30。

くも膜下出血のため、この世を去りました。

享年63歳。

倒れてから2週間の昏睡状態を経て、危篤に陥ってから1週間での旅立ちでした。

心の準備をするべき、長いお別れの時間をくれたことを、感謝しています。

強く、優しく、厳しく、美しく、賢く、楽しい人でありました。

母として、先輩として、友人として、自慢しても仕切れない、素晴らしい人でありました。

宮崎曜子の娘に生まれたことを、誇りに思っています。

こういうとき、本当に、当たり前の言葉しかありません。


ありがとう。

絶対にしあわせになって下さい。

また、おかんの娘に生まれたいと思います。

 

2010年12月 9日

病室日記  10月26日(火)母倒れる。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

閉店間際の店に、父から電話。

「やばいよ、またヨウコが倒れちゃったよ」

そう言う父の声に切羽詰まった感じはなく、むしろ明るいくらいだ。こういとき深刻になれない質の人なのだ。茶化す感じの物言いで、逆に自分を落ち着かせる感じは、分からなくもない。

「わかった、なるべくすぐ行く」

8年前にクモ膜下出血で倒れたときも運ばれた、武蔵野赤十字病院に母は搬送されていた。うちの店から自転車で10分の距離。よかった、すぐ駆けつけられる場所で。
脳卒中センターICUの前、夜中の待合ベンチに 父と妹、そして状況の把握できていない4歳の甥っ子が待っていた。私とツレアイokayanの顔を見ると、妹は「お姉ちゃん、今度はやばいよ」と、父と同じようなことを言った。

8年前と同じクモ膜下出血で倒れたのだが、違うのは動脈瘤の形で、今回のは「解離性動脈瘤」という、完全に瘤の形にはなりきらず、血管が裂けてそこから出血する、珍しい形の動脈瘤らしい。しかも内頸動脈という場所にできていて、下手に触ると脳の機能が失われてしまう、非常に手術するのが難しい状態だというのだ。12時間の手術で治癒に向かった8年前と、「同じようには考えないでください」と言われたという。

「お姉ちゃん、だって、目を覚ませばいいですね、ぐらいの感じだったよ?! 目を覚まさない確率の方が、大きいみたいだった…」

とりあえず再出血の危険が特に高い2週間は、麻酔で意識を低下させ、血圧も低めにおさえて、様子を見るという。そう言われても実感が湧かない。処置の終わった母に会えることになったのは深夜2:00をまわっていただろうか。鼻や口に大小の管が通され、頭にも何かが通され、腕にも何かが刺さっている母は、苦しそうな顔をしてはいなかった。急に実感が湧いて涙が出る。

やれることも何もなく、とりあえず皆で実家に帰る。「とりあえず飲むぞ」という父、「飲むの?!」と私が言うと「飲まなきゃやってられないでしょ」と妹。皆で一杯飲んで、これから2週間、断酒することを決意する。

願掛け。私にできることは今、そのくらいしかなかった。

 

病室日記 10月28日(木) 治療のためではない手術。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

母の脳の出血を管を通して体外に排出しているのだが、脳が腫れて血管が頭蓋骨に圧迫されることで、血が排出されなくなっているということで、頭蓋骨を一部取り除く手術をすることになった。これは「治療」ではなく、こうしないと血が脳内に溜まってしまうからであって、いわば「死なないための手術」なのだという。

頭蓋骨をとるって、それでも人は生きられるんだ?!

聞くと妹の友達にも、手術のために頭蓋骨を半分取った人がいるそうだ。その人は頭蓋骨がこなごなになったので、代わりにヘルメットみたいな形状のものを頭に入れているという。

手術は6時間で終わり成功した。取り外した頭蓋骨は「脳の腫れがひいたら元に戻すため」冷凍保存されるという。すごいな。

結果の脳のレントゲン(MRI?)を見た父は「意外ときれいな形でびっくりした。頭蓋骨を外したら変な形になっちゃうのかと思ったよ」と。確かに。

 

病室日記 11月1日(月) くよくよはしない
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

定休日。母のいない実家の様子を見に行く。
家事は苦手な父のことだから、どんな惨状になっているかと思ったが、恐れていたよりはきちんとしていた。まあ、妹が来てくれていたからだとも思うけれど。 okayanが掃除機をかけて、私が当面の食事のつくり貯めをする。といっても父は食事と言うより肴があればいいので、おでん、キムチ鍋、蓮根と牛肉のきんぴら、たたききゅうりを作っておく。

病院に行って母の様子を見る。もちろん人工的に調整しているので意識が戻ることはないけれど、家族の様子や愛猫の様子などを話して聞かせ、手を握って、帰ってくるように念を送る。

自分は無力で、できることは祈ることぐらいしかない。祈るということは、人の大発明なのかも知れないな。

夜はお客様に譲っていただいたハナレグミのライブへ。こんなときになんだけど、こんな時だからこそ、家にこもっていても暗くなるばかりなのだ。

初めて見るハナレグミのライブ、よかった。最近のお気に入りである、おおはた雄一がギターで参加していて、それもよかった。そして何より良かったのは、おおはた雄一がカバーした、ボブ・ディランの「don`t think twice」を、ハナレグミと二人で歌ったこと。二人が素晴らしいミュージシャンであることに疑いはないけれど…ディランは最高だと思わせられた!

don`t think twice, It's All Right.

 

2010年12月10日

病室日記 11月3日〜6日 風邪と誕生日
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

11月3日(水) リトスタ特製弁当

お店で山本高樹さんと旅音の林さんのトークイベントのため、当店初の試み、お弁当を作る。スタッフを含めると約50名様分のお弁当。想像以上に大変だった。
でもお弁当は母の得意技で、高校生の頃、毎日のことだから大変なはずなのに、とても凝っていて美しく美味しいお弁当をつくってくれていたので、母の名誉にかけても、おいしいお弁当を出したいと思ったのだ。冷めてるからとか、お弁当だからと言い訳はなしで、美味しいお弁当を目指した。評判は上々でよかった。

11月4日(木)風邪

ずっと水っぽい鼻水が出ていたので、ハウスダストかアレルギーかと思っていたら、どうやら風邪らしい。夜、節々が痛くなり具合悪い。咳と鼻水、あーいやだ。

11月5日(金)アロマオイル

咳と鼻水に悩まされていることを各方面に愚痴っていたら、アロマセラピストのユリさんが、風邪に効く(喉と鼻に効く)アロマオイルの小さな瓶を差し入れてくれた。ありがたい。みぞおちあたりに少し塗ったら、すーっとして気分も改善した。

11月6日(土)妹の誕生日

妹が誕生日なので、父と甥っ子と連れだってお店に来た。こんなときだから盛大にお祝いというわけにもいかないけれど、妹の好きなレバペーストを山盛りにして出してあげたり、ささやかなお祝いをする。年子の妹と私は、姉妹だけれど双子みたいな感覚もあって、小さい頃は死ぬほど喧嘩もしたけれど、今は最も親しい友人と言っても良い。

この世で父と母の血、どちらも流れているのは私と妹だけなのだ、それはとても特別なことなんだなと思う。

 

2010年12月15日

病室日記 11月8日 覚醒へ
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

定休日、また実家に行って軽く家事をしてから、父とokayanと3人で病院へ。ICUの中でも一番奥の特別な病室に入院している母。部屋はいつ行っても、電気を落として暗い状態が保たれていたのだが、今日は明るくなっている。

「2週間経ったので、今日から覚醒へ向けて対処していくことになりました」

麻酔もせず、血圧を低めで安定させる薬もしないことにして、部屋も明るくする。深い底の方にあった意識が浮上してくるようで、「話しかけてあげてください、覚醒につながると思いますので」という看護婦さんの言葉で「おかあ、シッポ(妹)が36歳になったよ!」「ねね(猫)が寂しがってるよ!」などと話しかけると、開かないながらも、瞼が小刻みにびくびくと震える。手を握ってもにぎり返すことはないし、表情も変わらないのに、瞼が動くだけで「生きてる」って実感が出てくる。

病院を出て、明るい気持ちで3人で自転車を漕ぐ。「誕生日も近いし、なにか洋服でも買いに行こうか。お母の目が覚めたときに、お父がきちんとしてないと、怒られるよ」と、とりあえず3人でユニクロと無印良品に行き、何も考えなくても、着ればオッサン臭くなく着こなせそうな洋服を物色して、質より量でコーディネートして、父へ誕生日プレゼントとする。

駅前の焼き肉屋で3人で乾杯。私とokayanは2週間の禁酒明け。「なんか、とりあえずよかった!」とりあえず母が生きている実感がある、それだけでも充分に嬉しかった。

実家に帰り明日からの父の食事を作りながら、これからどうなっていくのかあれこれ話す。okayanが「お正月をここで一緒に迎えられたらいいですね…」と言うと、父が突然涙を流して「それは無理だよ、それは高望みだokayan…そうなりゃいいけどさ…そりゃあ無理だよ…」と言う。楽天的でいつも調子の良い父が、初めて私たちの前で弱さを見せた。

「どんな形でもいい、僕は一緒にお正月を迎えられれば…」okayanが言った。「そうだね、そうなるといいね…」

瞼を動かす母に希望を見つつも、みんな不安なのだ。3人で夜更けの実家でオイオイと泣いた。

 

2010年12月17日

病室日記 11月12日 告知
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

朝、出勤準備をしていると電話が鳴る。滅多に鳴らない家の電話である。

「おとうだけど、やばいよ、病院に呼び出されちゃったよ。ご家族も呼んでくださいと言われたけど、来れるか?」

いつもより少し早口で、慌て気味の父。もちろん私は仕事があるのだが、行くに決まっている。

「すぐ行く!」

身仕度して、自宅から自転車を飛ばして10分。脳卒中センターの中に入ると、ちょうど面談室から父と先生が出てきた。「長女です」と父が言うと「じゃ、中でもう一度ご説明します」と面談室へ。父がもらった病状の説明書を広げて先生が言った。

「再出血しています。心肺停止して、瞳孔が開いています。今は人工呼吸器で呼吸させ、血圧を上げる薬を投与しています。心臓は動いています。けれど、頭蓋骨の手術もして、出血も体外へ送り出している状態でありながら、なお再出血するということは、これ以上手の打ちようがないんです」

パソコンに母の脳のMRIが映し出される。倒れた直後のもの、頭蓋骨を取った後のもの、そして今朝。今朝の脳の中には、倒れた直後よりも血が広がっていることがわかる。

「手の打ちようがないって事は…」

「見守るしかないということです…」

先生は余計なことをあまり話さない人なのだが、よけい伏し目がちになり無言になった。言っていることは分かるのだが、ちょっと呆然としてそれ以上言葉が出てこない。というか何か言ってどうなるものでもないのだ。父は「お前、大丈夫か?俺は思わず泣いちゃったよ」と言うけれど、私には言葉がない。「はあ…」と私はつぶやいて、しばらくMRIの画像を見ていたけれど、「とりあえず、母に会います」とだけ、やっと自分の意志を伝えた。

病室に向かう途中、「きょう、誕生日だね」と父に言うと、「人生最悪の誕生日になっちゃったよ」とおどけて言った。おめでとうと言う気分にはとうていなれない。

病室で、母は前と変わらない様子で横たわっているように見えた。けれど「おかあ、麻美だよ」と話しかけても、瞼は動かなかった。頭にされた包帯に少し血が飛んでいた。本当は今日の午後に、造影剤を投与して、MRIを撮り、治療の方向性を検討するはずだったのだ。容態が急変したのは今日の朝早くだったという。予定より早くMRIを撮ることになったけれど、もう手遅れだったのだ。

店に電話してokayanに報告。冷静を保っているつもりだったけど「…見守るしかないって」というところは声にならなかった。私は今日はお店に行かないから、今いるスタッフでどうにかして欲しい。スタッフに現状を報告して、明日明後日の営業形態を検討して欲しい。いろいろと指示を出して、自分が母のそばにいるための手はずを整える。スタッフを日々育ててきたのは、もちろんボランティア活動なんかじゃない。こういう時、その真価が発揮されるのだ。信頼に足るスタッフに囲まれている、いざというとき頼りになる、その幸せ。これで少なくとも定休日の月曜日まで、4日間私の体はフリーになった。

しばらく父と二人で病室にいたけれど、看護士さんに「今は安定していますから、急にどうこうなるって事はないと思いますよ」と言われ、食事をしに病院の外へ。こんな時だからこそ、まずいものは絶対に食べたくないと放浪の末、駅前の中華料理店へ。水餃子と麺のセットを注文すると父が「あと、生ね!」と言う。「ええ!こんな日まで飲むか普通」「飲まなきゃやってられないだろ」「しかたないなー…じゃ私も、生!」と、ひどい告知を受けた日に昼からビールを飲む親子。「おかあに、怒られそうだね」「いや、あいつららしいと苦笑いしてるよ」

午後遅い時間に、甥っ子の幼稚園の面接を済ませた妹の一家がやって来た。再度先生が、妹家族に直接、現状を説明してくれる。私と父が聞けなかったことを妹が聞いた。「それで、あとどのくらい持つんですか?」すると先生は沈痛な面持ちで「患者さんの体力にもよるので、何とも言えないんですが…2、3日かも知れないし、1週間かも知れません…患者さん次第です…」と言った。「脳死に近い状態です」

呆然とした。なんだか嘘みたいだった。

妹たちと母の病室に移動する。「一昨日来たとき、ママはあくびしたんだよ」と妹が言った。今は完全に無反応になっている。でも温かいし、口元には唾液が溜まってきたり、排泄物があったり、生きているのがわかる。脳死が人の死だなんて冗談じゃないと思う。

何とはなしに、だれかが必ず母のそばについているようにしようということになった。意外と眠る状況にデリケートな父と、子連れの妹には泊まりが無理なため、必然的に私が毎日泊まり込むことになる。短期間でもバックパッカー体験もあるし、体力に自信もあるし、どこでも寝られることにおいて私の右に出る者はいない。

面会時間の20:00を過ぎた頃、家族は皆で連れ立って帰って行った。甥っ子がいるのだからそう遅くまでいるわけに行かない。病室にいる間にやらなくてはならない、ということは何もなくて、自ら何をするかだ。アロママッサージオイルを持っていたので、母の手足を中心にマッサージを施し、顔をふき、化粧水や乳液を施す。母の自慢の美貌をそう簡単に失わせるわけにはいかない。マッサージをすると少しむくみがとれてくる。やっぱり生きているのだ。

今頃お店は週末の夜の忙しい時間を過ごしていることだろう。私は静かな病室で長い夜を迎えている。病室で過ごす時間のために本を買った。村上春樹訳、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」。タイトルも今の気分にぴったりな気がしたし、チャンドラーは好きで以前読んだことがあるのだが、村上春樹訳とくるなら、読み直したいと思っていた。こういうとき読みたい文体や内容ってすごく限られてくるんだなと思った。私が読みたくなったのは、村上春樹、池澤夏樹、金城一紀、ジョン・アーヴィング、いしいしんじなど。切実さを感じる文章が多い作家さんばかりだ。そして何より、この分厚い本を読み終わるまで、少なくとも母が生きていることを祈って。

夜中、仕事を終えたokayanがやって来た。「俺はとにかく、お店をやるよ。君が心置きなくお母さんのそばにいられるように」そう、okayanがいるから私は自由になれる。「みんな目の色を変えて頑張ってたよ」と嬉しい言葉。「お母さんは、俺にとって、嫁のお母さんであるという以上に特別な女性なんだよ…お母さんがいなかったらリトスタはなかったし、接客も、ものの考え方も、たくさんのものをもらった」と何度も口にしていたokayan、今は母のそばにいることよりも、きちんとお店を営業することが、私と母に対する彼の誠意なのだろう。早起きが苦手なくせに、毎朝毎晩見舞いにくると言い残してokayanは帰った。

「この1回1回が、俺にとってお母さんと会えるチャンスなんだよ」

父が「うちはいい婿をもらったな」と言っていたことを、不意に思い出した。

 

2010年12月30日

病室日記 11月13日(土) 長い一日。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

ベッドは病室の真ん中に据えられている。頭は窓に向けられており、その窓の下に小さなソファが2脚とソファテーブルがあった。このソファの背を倒して二つ繋げると、付添用の簡易ベッドになる。毛布を2枚と枕を一つ。これが私の寝床だ。窓際だけあって夜中は寒気が露骨に感じられるが、日中日が照っている間は暑いくらいになる。「どこでも寝られる」と豪語したとおり、読書などして3:00に就寝した後、看護士さんが処置に入ってくるときにうっすらと目が覚める他は、全く問題なく熟睡、いつもどおり8:30には起床した。病院も朝は活気があって、忙しそうに働く人たちの中でいつまでも寝ていてはきまりが悪い。

朝の処置(体を拭いたり、床ずれしないように向きを変えたり、歯磨きしたり、痰をとったり、その他諸々)の間は病室を出て、1階にあるタリーズで朝食をとる。これは以後の日課となった。

11:00、父がやってくるのと入れ替わりで一旦帰宅。出勤するときの身仕度、荷物のまま病院に泊まっていたので、数日の泊まり込みの準備をする。風呂掃除をして風呂に入り、クイックルで掃除、洗濯を2回して干して、ゴミをまとめて捨ててひとごこち。これでまあ数日帰って来れなくても大丈夫。友人のアロマセラピストがブレンドしてくれたアロマオイルを持って病室へ戻る。

病室でやるべきことはほとんど無い。母に話しかけてみたり、アロマオイルでマッサージしてみたり、あとはウェットタオルで顔や体を拭いて化粧水などを施し、とにかくなるべく気持ちいい状態を保ってあげることを心がけた。生きているのだから、涎や痰もでるし、排泄物だって出る。そんなとき大の綺麗好きの母は、清潔に保っていたいに決まっている。マッサージすればむくみもとれるし、肌だってつやつやしてくる。なんたって病院は乾燥しまくっている。私も一晩寝ただけで、切れた唇から血が出るほどだ。

私は子供の頃から健康自慢で、大きな病気も怪我もせずにこれまで生きてきた。入院もしたことがなければ、通院だってほとんどしたことがない。だから病院の匂い、空気というものにいつまで経ってもなれることができない。病気というものがひたひたと醸し出す匂いは、鼻の敏感な私の気を滅入らせる。だから病室に入ってきた看護士さんに「わー、ミヤザキさんの病室癒されますねー。良い匂い!」と口々に言われるとほっとした。手の施しようがない患者である母に、看護士さんたちは精一杯接してくれているように思えたし、ならば気持ちよく看護して欲しかった。

後の時間は、ひたすら本を読んでいる。日々忙しくてあんなにとりたくてもとれなかった読書の時間が、皮肉にもありあまるほどある。入れ替わり立ち替わりやってくる父や妹、妹の夫や甥っ子と話したりする他は、本の世界にずぶずぶと浸りきる。伯母がやってきて「大変なことになっちゃったね」と少し泣いた。

マッサージしても、本を読んでも、一向に時計の針はすすまない。一日って、こんなに長いんだ。あ、今やっとランチ終了か。今仕込みだな。夜の営業始まったな、と、店時間基準でものを考える自分がいる。なんと長い一日を、まるで一瞬のように私は過ごしていたんだな。今はこの長い時間をじっくりと味わおう。大切な時間なのだ。

 

病室日記 11月14日(日) 「長いお別れ」読了。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

「耳は聞こえています。それから、さすってあげると安心しますよ」と看護士さんが言ったので、みんなが意識的に母に話しかけている。アロママッサージを日に何度かしているので、若い看護士さんが「ミヤザキさんのかかとは私のよりずっときれいですね」と笑っていた。確かに母の足や手は、いまや私のそれより潤いに満ちている。時間があるんだから自分の手足もマッサージすれば良いんだよね。入れ替わり立ち替わり親戚もやってきて、みんなでおしゃべり。女子ばかり5人で話しつつ「あまりうるさくすると、きっとヨウコちゃんに怒られるね!」

日曜日のせいか、病院では「糖尿病フェスタ」なるものをやっていて、父が「ちょっとオレも行ってこよう」とお遊び気分で出かけたら、糖尿病の危険は今のところ無いが、「血圧が高かった!薬飲む数値だってよ!」とビックリして帰ってきた。さっそく翌日かかりつけの医者に行くように言う。

母の血圧は90/50くらいで安定している。この血圧は上が60を下回ると危なくなってくるという。耳が聞こえているというのは本当らしく、甥っ子がみんなに怒られて大泣きして騒いだら、母の血圧が一気に上39まで落ちて看護士さんたちの顔色が変わった。甥っ子が帰っていき病室が静かになると、また安定した。そんな血圧の浮き沈みでも母が生きている実感があるのが単純に嬉しいのだ。

夕方、村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」読了。面白かった。

主人公の探偵、フィリップ・マーロウの事務所にギャングのボスが乗りこんできて部屋を見回し「ちっぽけな稼業だな」「たまらんほどちっぽけだ」といい、自分が何を持っているか、どんな大きな仕事をしているかを語る。仕事も、家族も、不動産も、権力も、持てるものはすべて持っているギャングのボス。それで「お前は何を持っている?」と聞かれたマーロウは「語るに足るほどのものはない」と答える。それで、マーロウに共感する私は、なかなかハードボイルドな人生を送っているのかも知れない。ちっぽけな稼業、語るに足るほどのものを持たない人生。金や名誉に流されず、自分の信念や愛するもののために生きる人生。

訳者あとがきの中で、村上春樹が紹介したチャンドラーのエピソード。チャンドラーは病の床に倒れた妻を看病しながら、この「ロング・グッドバイ」を書き上げた。彼は妻の死の直後、ある手紙にこのように書いている。「言うまでもなく、私はずっと前に彼女にすでにさよならを告げていました。実際この二年間というもの、真夜中に目が覚めたときなどに、自分が彼女を失うのは時間の問題に過ぎないのだと実感することもありました。とはいえ、それが本当に起こってみると、つらさには何の変わりもありません」。

そうなのだ。そうなのだろう。時間の問題に過ぎなくても、なるべくその時間を長引かせたいと思う、その気持ちは愛、そのものなのだ。å

 

2010年12月31日

病室日記 11月15日(月) あたたかい食事
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

母の痰が詰まりやすくなっている。痰が詰まると体に酸素を取り入れにくくなるそうで、看護士さんがこまめに痰をとりに来てくれるのだが、なかなか大変そうだ。人工呼吸器の途中に痰を柔らかくする薬などを入れて対応している。血圧は低くなったりすることがおおく、でも65/40くらいで安定している。血圧が上下するのを気にしてみていたが、看護士さんが言うには体内酸素濃度と排泄物がちゃんと出ているかが大事だそうで、今のところまだ大丈夫そうだとのこと。今日はツレアイokayanもお休みなのでやってきて、ずっと一緒についている。

熊本より母の親友たちと兄嫁が来てくれる。母の実家ではもう兄弟もお母さんも亡くなって、お父さんは小さい頃に亡くなっているので、もう身内は誰もおらず、兄嫁が家を守っている。「生きているうちにヨウコちゃんに会いたくて」来てくれた…そういう友情の濃さ。「こんなにきれいな病人さんいないわよ!」「起き上がって怒られそうだもんね!」と口々に話す内容は、母が昔から気が強くまっすぐで信念を曲げない人間だったことを物語っている。私も小さな頃から知っている母の友人たち。この来訪をきっと母も喜んでいる。

夜、私のマブダチのツジが見舞いに来る。あまり友人たちには連絡していなかったのだけど、お店に私が出勤していないので心配していたツジにだけ連絡したのだ。高校生の時からうちに出入りしていたし、母が働いている頃のお店に家族を連れて来てくれたことも何度もある。私が「おかあ」と呼ぶから、高校の友達も「おかあ」と呼ぶ…そのくらいの親しい間柄。手を握りながら話をしてくれた。

母の付き添いを伯母に任せ、okayanとツジと連れだって外へ食事へ。少しお酒を飲みながら、温かい食事を食べ、久々に温かいものを食べていることに気づく。コンビニのパンやタリーズのサンドイッチなどを食べることが多くて、食事はかなりおざなりにされていた。温かい食事をしてみると、それが体にしみじみと優しいと思う。

「そろそろ君が戻ってこなくちゃ、お店のクオリティが保てない」とokayanが言った。私の不在に、最初は目の色変えて仕事していても、それが続けば慣れる。しかる人がいないからスタッフの気がゆるむ。キッチンの中のこととなるとokayanには口出しできない部分もあるし、私の仕事のフォローで全体まで目が行きわたらない。もちろん悪気はなくても、代理店長のクロコの力だけでは、チームワークは保ててもプレッシャーを与えられるわけではなく、仲良しグループの文化祭みたいな雰囲気になってしまう恐れがある…。クロコはよいキャプテンだが、やっぱり監督が必要なのだ。

明日からお店に復活する。夜は病院に帰って泊まり、朝は病院から出勤する。そのことを決めると妹が「うちで風呂湧かしておくから入りに寄りなよ」とサポート体制。昼間は父と伯母と妹が交代で母に付き添い、夜は私が泊まり込みで付き添うことになる。病院泊まりも今日で4泊め、そろそろ体もなまってきた。狭い長椅子ベッドでヨガのポーズをして明日に備え就寝。

 

病室日記 11月16日(火) 仕事へ
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

ひさしぶりの出勤。スタッフに迎えられ感慨深い。「がんばったね、ありがとう」と言うと「まだまだ頑張りますよ」と頼もしい声も。「店長がいるとやっぱり安心感が違う」と、やっぱり自分の仕事に集中できるので、みなの目の色が変わった気がした。しっかり食べて、しっかり働く。このヨロコビよ。仕事の合間を縫って家族に連絡を入れるが母の容態も変わりなし。

仕事を終えて夜中に一度実家へ行き、妹が湧かしてくれた風呂に入り、伯母が中華街で買ってきた肉まんをいただく。妹と二人になるときが、一番ゆっくり話ができる。母のこと、父のこと、これからのことなど妹の考えを聞く。彼女はいつも明確で迷いのない意見がある、そこが愛すべき資質だと思う。

病室へ、疲れ切った様子の父と交代。おつかれさま。そばにいる時間が減った分、少し起きていようと、母にアロママッサージを施したり、本を読んだり。旅音「中南米スイッチ」読了。病室にいながらにして中南米に心が飛ぶこともできる、偏見や思いこみのないフラットな視点、でもちゃんと旅音フィルターのかかった、素敵な本だった。

 

2011年1月 5日

病室日記 11月17日(水) 家庭の医学
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朝、母の体内酸素濃度が低くなる。痰が詰まりやすく、肺に異物が入りやすい模様。体内酸素濃度は100が最も良く、90くらいはキープしたいようなのだが、今の母は86〜90ぐらい。でもまだ安定しているから大丈夫、という看護士さんに励まされて出勤。いつも通りに仕事に精を出す。

事情を知っているお客様や友人がお店に顔を出してくれ、「祈ってるからね!」「念を送ってるから!」と声をかけて下さるのがありがたい。ありがたいが、これだけ毎日、ゆるやかに死に向かってゆく母を見ていると、いったい何に対して祈ればいいのか判らなくなってくる。奇跡が起きて母の脳の出血が止まるのを祈ればいいと言うのか? それとも母が苦しまずに済むように祈ればいいのだろうか? 何に対して祈ればいいのか判らないまま、ただ母のしあわせを祈る。笑うといつも大笑いになる、母の笑い声を想う。

レベッカ・ブラウン「家庭の医学」読了。母の介護、そして死に至るまでが淡々と、でもリアルに、描かれていた。よく分かりすぎて困るぐらいに、その心情を理解できた。

諦めと希望の入り交じった感情、諦めることへの罪悪感や、無力感と、それでもまだできることがあるという喜び。兄妹で葬儀について話す哀しみと現実に向かい合う強さ。

きょう、うちでも葬儀の話題が出た。「どうしたいと言っていたか、よく考えておいてくれ」と言う父だって辛いに決まっている。

 

病室日記 11月18日(木) 穏やかな顔
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

昨日は忙しく、仕事が終わるのが遅くなってしまったため、一旦帰宅してお風呂に入る。家がokayanの匂いになっている。病室に長い間泊まりすぎて、なんとなく病院に住んでいるような気がしてくるから不思議だ。数日空いただけで家は少しよそよそしくなり、病室は親密になってくる。okayanと一緒にもういちど病室に寄ってから出勤。

夜、友人の友人がお客様として来店。ひさしぶりだったのだけれど何も事情を知らない彼は「どうしたの? 何か良いことあった?」と言う。「なんで? いいことなんて何もないよ」と答えると「あれー、そう。いや、なんか、今まであった中で一番穏やかな顔してるからさ」。

母と向き合うことで何か大切なことを悟らされていて…その「悟りの顔」が穏やかな顔になっているのだろうか?

 

2011年1月11日

病室日記 11月19日(金) 脱力。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

見慣れた病室、いつもの朝。病室泊も一週間目ともなると、生活の一部のように見慣れた風景になってくる、病院というものに縁のない人生を歩んできた私にでさえ。母の血圧と脈拍、体内酸素濃度を定期的に、自動で測る機器の見かた、エラーが起きた場合の対処の仕方など、もはやお手の物。今朝も低めだが母の容態は安定している。いつものように看護士さんが朝の処置をしてくれ、父が病室にやってくるのと交代して仕事に向かう。

いつ来れなくなってもいいように、スタッフに指示をする。呼ばれたらいつでも飛び出して行けるように、全力でいつもより多めの仕込みをし、落ち度はないか確認する。スタッフが私をサポートしてくれる。

夜、19:00を過ぎた頃に、店に父が食事しにやってくる。「あれ?大丈夫?おかあは」と聞くと「オッケーオッケー、安定してる。今、シホもリュウを連れて一度家に帰ってるよ。サチコがついてる」と余裕の表情で、妹も甥っ子を連れて一旦帰宅、伯母が一人で病室にいるという。「じゃ、俺ちょっとパトロールしてくる」と、馴染みの店を何軒かハシゴしに父は帰っていった。父の馴染みの店は、母の馴染みの店でもある。心配する知り合いたちに、父はいつも元気な自分を見せようとする。

21:00前、店の電話が鳴る。「麻美?なんかね、ヨウコちゃんがさ、急に血圧と脈拍が下がってね、看護士さんが、あっ大変って、ご家族を呼んで下さいって、でもどうしよう、大変だよ…」取り乱した伯母の様子に「今すぐ行く!」とだけ答えて電話を切った。直後に父からも電話が入り「聞いたか?」「聞いた」「今俺もタクシー乗ったから」「私もすぐ行く」と答え、後の営業をokayanとスタッフに任せ、自転車をかっ飛ばす。普段なら自転車で10分の距離。あと3分の距離で自転車のチェーンが外れる。こんな時に限って。決して運動の得意ではない私、自転車をひいて突っ走っていく。見慣れた病院、見慣れた廊下、エレベーターに乗って3階の脳卒中センターへ。

病室へ滑り込むと家族が揃って母を囲んでいた。母の肌の色が、一目して分かるほど黄みがかっていた。「お姉ちゃん、間に合わなかったよ」妹が泣きそうな顔で言った。「みんな間に合わなくって…すぐ来たのにね」「俺なんかちょうどタクシーに乗り込むところで連絡が来たから、10分もしないで着いたのに、間に合わなかった」妹も父も、母の最期を看取ることができなかった…伯母だけがそこにいたのだった。

母の容態が急変してから、最期の瞬間まではあっという間だったと伯母は言った。「看護士さんが、ご家族を呼んだ方がいいって言ってからすぐに連絡したんだよ、でも、本当にみるみる血圧も、脈拍も落ちていって…あっというまだった、あっというまで…」いつまでも、伯母は取り乱した様子だった。まだ温かい、けれども活動することをやめてしまった母を囲んで、医師が来るのを待っていた。担当医が不在の時間で、当直の、初めて見る女医さんが看護士さんに呼ばれてやって来た。脈やら瞳孔やらを確認して「11月19日、21時30分、ご臨終です…お力になれなくて残念です」と看護士さんと一緒に一礼した。担当でもなく、初めて母に会ったであろうその若い先生が、臨終の確認をして、残念ですと言うことが、なんだか滑稽な気がした。

母の臨終に実感が湧かないまま、現実はどんどん動いていく。妹と伯母が病室の私物を片付け、父は知り合いの葬儀屋に連絡し、私は看護士さんにこれからの段取りを聞いていた。妹たちは車で一足先に家へ、私と父は母と一緒に葬儀屋の到着を待つことになった。看護士さんが母の遺体の処置をしている間に、父は親戚や友人に、私は店に連絡した。okayanがすぐに出た。「間に合わなかった。だめだったよ…」「そうか、」死を伝えるとき、人はたいして多くの言葉を持つことができない。

病室の外のベンチに父と並んで座っていた。「でもさ、おかあらしいよね」母の逝き方があまりに急で、実感がわかず、笑ってしまう。「直前まで全力でがんばって、脈拍も血圧も安定していたのに、急に気が変わったみたいにがんばるのやめて、脱力して逝っちゃうなんてさ」「そうだな。しかも俺たちがいない隙にな。…きっと『あいつらうるさいから、今のうちだ!』なんて、急いで逝っちゃったのかも知れないな」「あーあ」二人で笑い泣きした。

葬儀屋がストレッチャーをひいて病室へやって来て、母に手を合わせて、看護士さんと一緒にベッドからストレッチャーへ母を移した。エレベーターで地下まで降りる。地下はしんとしていて、長い廊下をストレッチャーが動く音だけが響いている。霊安室の前を通り、何もない壁の間を、裏口に向かって歩いていく。野球で負けたチームが、裏から出口に向かって歩いていくような気持ちになる。出口の外は業務用の搬入・搬出口のようになっており、スロープを降りてきたワゴン車が待っていて、母はストレッチャーごとワゴン車に入れられる。私と父もそのワゴン車に乗りこむ。振り返ると、ついてきた看護士さんたち3人が揃って美しい礼をした。見事に3人角度が揃った礼だった。まるで、慣れているように見えるぐらいに。

夜の風景の中を、眠る母と一緒に家へと向かった。母の不在を痛感するには、まだまだ時間がかかるに違いない。

さよなら、病室。

さよなら、おかあ。

心の準備をする時間を、長いお別れの時間をくれて、ありがとう。

 

2011年1月14日

プランナー魂。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

母の葬儀は無宗教の形式で行った。生前、母がそれを望んでいたからだ。

無宗教式というのは決まりも何もない、自由な分だけ、葬儀屋さんも慣れてはいないようで、こちらから提案しないと、何も打ち合わせがすすまない。「何をしたいか考えておいて下さい」…って言われてもなあ。お経は唱えない、じゃあ献花形式にしよう、母は花が好きだったからね。普通はプロフィールを紹介するらしい。告別式では病気の進行についてとかも軽く触れたりするらしい。

葬儀屋さんのサイトや一般常識の情報ページなどを見ながら、普通はどんなことをするのか、そのなかで不必要なのは何か、逆にその穴を埋めるべきか、埋めるなら何で埋めるか…。あれこれ調べたり考えたり打ち合わせたりする私は、即席の葬儀プランナーであった。父と妹は親戚や訪問客の対応に追われ、逆に葬儀の企画や打ち合わせ事務仕事の一切は私が任せられる形になったのだ。

私もプランナーを10年もやっていた身だ。葬儀プランナーだってなんとかやってやろうじゃないの。

母の死は辛いし哀しい、けれどそのあとにやって来た「しなければならないこと」の山は、私たち家族が哀しみの底へ落ちないための命綱になった。

祭壇はどのようにするか、棺は、骨壺は、火葬場のグレード(!)は、時間は、列席者は何人ぐらいになりそうか、会場はどこにするか、供食のおもてなしはどのくらい用意するか、香典返しは何にするか、メッセージカードのデザインはどうするか、献花の花はどの花を何本用意するか、祭壇の他に飾る花の手配はどうするか、友人代表の挨拶は、受付は誰に頼むか、音楽はCD−ROMに落として渡す、火葬場に行く人は誰か、人数は、帰ってきてからの食事は何人前か、どの値段のものにするか…ありとあらゆる細々としたことを決めていく。

困ったのは、お経を読まないので間が持たない、ということで、音楽を流すだけでは寂しいのではないかと葬儀屋さんに言われたこと。色々考えた結果、「そうか、お葬式だと思うから考えが行き詰まるんだ。無宗教式なんだから、もっと自由に考えればいいのだ。もっと…そう、結婚式ぐらいの気持ちで母を送った方が良いのではないだろうか?」という結論に行き着いた。

祭壇も献花する花もピンクと白(母は意外と可愛らしいものも好きだった)にし、友人代表の挨拶を頼み、プロフィール紹介は長めに、母の人となりを伝える楽しさを含めたものにした。そして告別式では母への手紙を読むことにしたのだが、妹に書いてと頼むと「いや!本当にそういうの苦手なんだから!!」とかたくなに拒否された。妹は結婚式で母への手紙を書くことも最後までかたくなに拒否していたのだが、ダンナに説得されて書いたという前例を持っている。とにかく文章を書くのも得意ではないからと言い訳していたが、読みながら泣いてしまうのもいやだったのだろう。父は喪主の挨拶があるし、やっぱりここは私が手紙を書こうということになった。大体私は、自分の結婚式を自分のお店でやったため、形式にとらわれずやりすぎて、母への手紙とか感謝の言葉とかを書き記したことがなかったのだ…やっぱりここは私が書くべきだろうと思った。

そうは言っても葬儀プランナーをしつつ、来客の対応だって全くしないわけにもいかない…何だかんだで2日の猶予はあっという間に過ぎ、お通夜の当日を迎えてしまった。まだ手紙は1行も書いていない。なぜかと言えば、結局お通夜・告別式の進行表やら、司会者が話す内容の原稿、母のプロフィール原稿などを、すべて私が書いていたからである。情緒に浸って手紙を書いているヒマなどない。頭は完全にプランナーモードである。

よし、わかった。諦めた。告別式当日の朝、書こう。

お通夜の夜から告別式の朝にかけては「夜とぎ」といって、母のかたわらで家族が寝ずの番をする。告別式は12:00からだから、会場に泊まった日の朝ならたっぷり時間があるに違いない。夜に書く手紙は重くなりやすい…メランコリックに、情感豊かすぎるように。朝、すっきりした頭で、母と向き合おう。

 

2011年2月 4日

母の誕生日に寄せて。
[ ミヤザキの日々暮らし。, 病室日記 ]

1月26日は母、ミヤザキヨウコの誕生日でありました。

11月19日に母がこの世を去ってから、その前後のことを残しておきたいと書きはじめた「病室日記」そして今書いている通夜、告別式の日のこと。思い返しながら記憶が薄まらないうちに書き留める…そういう作業をしているからといって、いつまでも悲しみに暮れているというわけではなく、ただ書くということが、私にとってとても大切なことなんだなと思う。自分自身と向き合うためには(そして思索を深めていくためには)避けて通れないことだったりするのだ。

母の不在が逆に存在感を増していくこと…空いた穴ぼこの大きさはごまかしきれるものではなく、なかったことになんかもちろんならず、穴は穴自体に何もなくても存在するんだなと思う。何に空いた穴であるか、その大きさはどんなものか、様々な違いがあっても、穴は穴だけで存在できない、他者あっての穴なのだと。

なんてことを考えるともなく考えていたのだけど、タイムリーな記事を読んだ。

http://www.satonao.com/archives/2011/01/post_3114.html

内田樹さんの最終講義を聴いた「さとなお」さんの文章…内田さんのブログの原文を読むともっと深くしっくりくるのだけど、この記事がよくまとまっていて分かりやすいのでこちらを紹介。

世の中は「存在しないもの」に満ちていて、逆に存在しなくなってから、その存在の意味について考えはじめる…そうなのだ、逆にそれが存在し続けるということではないだろうか。

告別式の朝、母の棺の前で母のことを思って書いた文章…それは告別式で母への手紙として読み、棺に入れ、火葬場で母と一緒に旅立ったから、今はもう存在しない。あの日、母と向き合った気持ちは、二度と同じようには戻ってこない。けれど何度も何度も母が私に語りかけてくる、存在しなくなった今もつづくそのことは、あの日と同じようにかけがえがない。

告別式の後、多方面から「あの手紙が良かったよ」と声をかけていただいた。「上手く書こうと思っちゃダメ、作文は思ったことを思ったように書くのが一番いい」と教えてくれたのもやはり母だった。人生の中であれほど思ったことを思ったように書けた文章はなかったように思う。そのくらい切実に、私は思ったことを書いたのだった。

思い出してみる。

それはこんなふうだった。




おかあへ


おかあに書く、最初で最後の手紙になります。考えてみれば、書こうと思えばいつでも書けたのに、結婚式の時も、一人暮らしをしているときも、一度も手紙を書かないでごめんなさい。もっと早く書けば良かったね。

私は小さい頃、あなたのことを「ママ」と呼んでいました。けれど小学校の高学年の頃、急にそのことが恥ずかしくなったのです。周りの友達は「お母さん」と呼んでいる人が多かったし、私はその頃もう既に今みたいにバンカラな性格だったから、ガラじゃなかったのです。それで、ふざけて「オフクロ」とか「かあちゃん」とか、色々呼んでみたけれど、結局「おかあ」に落ち着きました。あなたは初めのうち、少し嫌がっているようでした。でも、高校生にもなると、友達も皆あなたのことを「あーちゃんのお母さん」ではなく、「おかあ」と親しみを込めて呼ぶようになりましたね。そう、「おかあ」といえば自分のお母さんではなく、あなたのことを指すようになりました。

年子の姉である私は、物心ついたときにはもう、甘え方を知らない子供でした。天真爛漫に甘えることを知っている妹と違って、甘えることに気後れして、気づいたときには甘え方が分からなくなっていました。きっとあまりかわいげのない子供だったと思います。けれど甘えることを知らない私に、あなたは「自由」という翼をくれました。「考えたとおりに、思った通りにやりなさい」。受験する高校を決めるときも、専門学校に行くと決めたときも、就職を決めたときも、会社員をやめてフリーのプランナーになると決めたときも、「あーちゃんがそう決めたならそうしなさい。大丈夫!」と勇気づけてくれましたね。おかあにそう言われることで、私は自由と勇気ともらっていたのだと思います。

あなたが家庭料理のお店をやりたいと言ったとき、私は一も二もなく賛成しました。おかあの料理が本当に大好きだったし、そんな料理が食べられるお店があるなら、ぜひ通いたいと思ったから。そして、いつしかあなたの夢は、私の夢になりました。おかあがいなければ、リトルスターレストランは存在しなかった。おかあがいなかったら、私の夢は、もっと違う形のものになっていたかも知れません。

ツレアイのokayanは、お店にいる間に、あなたに大切なことをたくさん教わったそうです。「俺にとってお母さんは、君のお母さんであるという以上に、特別な女性なんだよ」と何度も言っていました。おかあも「私は前世でokayanの妹だった気がする」なんて言っていましたね。きっと何か魂のつながりがあるのかも知れませんね。

今思うと、リトルスターレストランで一緒に働いた一年弱の時間は、かけがえのないものだったのだとよく分かります。たくさん笑って、よくしゃべって、喧嘩もしましたね。一生の中でとても濃い時間をあなたと過ごしました。料理を習って、同時に人生の中で大切にしなければならないことを、たくさん教えてもらいました。

小学校一年生の頃、朝顔の観察日記で、ろくに朝顔を見ないで花の絵を描いて、「よく見て描きなさい!」とこっぴどく叱られたことがありましたね。そうして私は、よく見ると言うことを学び、絵を描くことが好きになりました。写生会の作品が市で表彰されると、「わたしがあの時叱ったおかげよ」と笑っていましたね。作文の授業で「上手く書けないから作文が嫌いだ」と文句を言うと、「上手く書こうとするからいけない。思ったことを書きなさい」と叱られました。「作文なんか大嫌い」という作文を書いて先生に誉められ、思ったことを書く楽しさを知りました。

曲がったことや、ずるいこと、筋の通らないことが大嫌いで、いい加減なことをしたり、嘘をついたり、狡いことをすると死ぬほど叱られました。そんなあなたの厳しさを「ミヤザキ家の鬼軍曹」「鬼ヨウコ」なんて茶化したこともありました。けれど、今、私にあなたが与えた影響を考えると、あなたが「鬼」で良かったと、心から思います。

仕事を持っていて忙しい時代も多かったのに、家の中はいつもきれいで、料理は美味しく、家事は完璧。厳しさも、優しさも、もちろんその美貌も、自慢の母でした。

あなたは、人生で出会った人の中で、一番尊敬している人です。

こういう気持ちを表現しようとすると、当たり前の言葉しか見つかりません。

ありがとう。

また生まれ変わっても、あなたの娘に生まれたいと思います。

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思い出して書いてみて思うのは、やっぱり何かが「違う」ということ。

あのとき書いた文章は、やっぱり戻っては来ない。

それでもここに記しておく、あの時の気持ちを、ほんの少しでも。

 

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