1月26日は母、ミヤザキヨウコの誕生日でありました。
11月19日に母がこの世を去ってから、その前後のことを残しておきたいと書きはじめた「病室日記」そして今書いている通夜、告別式の日のこと。思い返しながら記憶が薄まらないうちに書き留める…そういう作業をしているからといって、いつまでも悲しみに暮れているというわけではなく、ただ書くということが、私にとってとても大切なことなんだなと思う。自分自身と向き合うためには(そして思索を深めていくためには)避けて通れないことだったりするのだ。
母の不在が逆に存在感を増していくこと…空いた穴ぼこの大きさはごまかしきれるものではなく、なかったことになんかもちろんならず、穴は穴自体に何もなくても存在するんだなと思う。何に空いた穴であるか、その大きさはどんなものか、様々な違いがあっても、穴は穴だけで存在できない、他者あっての穴なのだと。
なんてことを考えるともなく考えていたのだけど、タイムリーな記事を読んだ。
http://www.satonao.com/archives/2011/01/post_3114.html
内田樹さんの最終講義を聴いた「さとなお」さんの文章…内田さんのブログの原文を読むともっと深くしっくりくるのだけど、この記事がよくまとまっていて分かりやすいのでこちらを紹介。
世の中は「存在しないもの」に満ちていて、逆に存在しなくなってから、その存在の意味について考えはじめる…そうなのだ、逆にそれが存在し続けるということではないだろうか。
告別式の朝、母の棺の前で母のことを思って書いた文章…それは告別式で母への手紙として読み、棺に入れ、火葬場で母と一緒に旅立ったから、今はもう存在しない。あの日、母と向き合った気持ちは、二度と同じようには戻ってこない。けれど何度も何度も母が私に語りかけてくる、存在しなくなった今もつづくそのことは、あの日と同じようにかけがえがない。
告別式の後、多方面から「あの手紙が良かったよ」と声をかけていただいた。「上手く書こうと思っちゃダメ、作文は思ったことを思ったように書くのが一番いい」と教えてくれたのもやはり母だった。人生の中であれほど思ったことを思ったように書けた文章はなかったように思う。そのくらい切実に、私は思ったことを書いたのだった。
思い出してみる。
それはこんなふうだった。
おかあへ
おかあに書く、最初で最後の手紙になります。考えてみれば、書こうと思えばいつでも書けたのに、結婚式の時も、一人暮らしをしているときも、一度も手紙を書かないでごめんなさい。もっと早く書けば良かったね。
私は小さい頃、あなたのことを「ママ」と呼んでいました。けれど小学校の高学年の頃、急にそのことが恥ずかしくなったのです。周りの友達は「お母さん」と呼んでいる人が多かったし、私はその頃もう既に今みたいにバンカラな性格だったから、ガラじゃなかったのです。それで、ふざけて「オフクロ」とか「かあちゃん」とか、色々呼んでみたけれど、結局「おかあ」に落ち着きました。あなたは初めのうち、少し嫌がっているようでした。でも、高校生にもなると、友達も皆あなたのことを「あーちゃんのお母さん」ではなく、「おかあ」と親しみを込めて呼ぶようになりましたね。そう、「おかあ」といえば自分のお母さんではなく、あなたのことを指すようになりました。
年子の姉である私は、物心ついたときにはもう、甘え方を知らない子供でした。天真爛漫に甘えることを知っている妹と違って、甘えることに気後れして、気づいたときには甘え方が分からなくなっていました。きっとあまりかわいげのない子供だったと思います。けれど甘えることを知らない私に、あなたは「自由」という翼をくれました。「考えたとおりに、思った通りにやりなさい」。受験する高校を決めるときも、専門学校に行くと決めたときも、就職を決めたときも、会社員をやめてフリーのプランナーになると決めたときも、「あーちゃんがそう決めたならそうしなさい。大丈夫!」と勇気づけてくれましたね。おかあにそう言われることで、私は自由と勇気ともらっていたのだと思います。
あなたが家庭料理のお店をやりたいと言ったとき、私は一も二もなく賛成しました。おかあの料理が本当に大好きだったし、そんな料理が食べられるお店があるなら、ぜひ通いたいと思ったから。そして、いつしかあなたの夢は、私の夢になりました。おかあがいなければ、リトルスターレストランは存在しなかった。おかあがいなかったら、私の夢は、もっと違う形のものになっていたかも知れません。
ツレアイのokayanは、お店にいる間に、あなたに大切なことをたくさん教わったそうです。「俺にとってお母さんは、君のお母さんであるという以上に、特別な女性なんだよ」と何度も言っていました。おかあも「私は前世でokayanの妹だった気がする」なんて言っていましたね。きっと何か魂のつながりがあるのかも知れませんね。
今思うと、リトルスターレストランで一緒に働いた一年弱の時間は、かけがえのないものだったのだとよく分かります。たくさん笑って、よくしゃべって、喧嘩もしましたね。一生の中でとても濃い時間をあなたと過ごしました。料理を習って、同時に人生の中で大切にしなければならないことを、たくさん教えてもらいました。
小学校一年生の頃、朝顔の観察日記で、ろくに朝顔を見ないで花の絵を描いて、「よく見て描きなさい!」とこっぴどく叱られたことがありましたね。そうして私は、よく見ると言うことを学び、絵を描くことが好きになりました。写生会の作品が市で表彰されると、「わたしがあの時叱ったおかげよ」と笑っていましたね。作文の授業で「上手く書けないから作文が嫌いだ」と文句を言うと、「上手く書こうとするからいけない。思ったことを書きなさい」と叱られました。「作文なんか大嫌い」という作文を書いて先生に誉められ、思ったことを書く楽しさを知りました。
曲がったことや、ずるいこと、筋の通らないことが大嫌いで、いい加減なことをしたり、嘘をついたり、狡いことをすると死ぬほど叱られました。そんなあなたの厳しさを「ミヤザキ家の鬼軍曹」「鬼ヨウコ」なんて茶化したこともありました。けれど、今、私にあなたが与えた影響を考えると、あなたが「鬼」で良かったと、心から思います。
仕事を持っていて忙しい時代も多かったのに、家の中はいつもきれいで、料理は美味しく、家事は完璧。厳しさも、優しさも、もちろんその美貌も、自慢の母でした。
あなたは、人生で出会った人の中で、一番尊敬している人です。
こういう気持ちを表現しようとすると、当たり前の言葉しか見つかりません。
ありがとう。
また生まれ変わっても、あなたの娘に生まれたいと思います。
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思い出して書いてみて思うのは、やっぱり何かが「違う」ということ。
あのとき書いた文章は、やっぱり戻っては来ない。
それでもここに記しておく、あの時の気持ちを、ほんの少しでも。